昭和30年代の話しです。母(42歳)が私(小2)と兄を連れて離婚前提で親父と別居し、
母の実家にいって祖父母と一緒に暮らしていました。
母とは小6まで一つ布団で一緒に寝ていました。
寝る時は母は「こうすると温かいから」と言って必ず母の両脚の間に私の両脚を
挟んで寝てました。母は寝る時は腰巻に寝巻きでズロースはつけずに寝てました。
私の両脚に母の陰毛が触るのですが、当時は純真無垢の子供でしたからなんとも思
わず本当に温かく、母に抱かれて寝ていました。
たぶん母は、オヤジと別れ、男がほしかったのでしょう・・・。
小5位の時でしょうか、下半身に違和感(快感)を覚え目が覚めましたが、寝たふりを
続けました。
その後、たびたび同じことがあり、ある晩とうとう耐え切れず母にしがみつ
いてしまいました。
私が目覚めたことに気がついた母は「シーッ」と言い、それまでしごいていたチンチン
の手の動きを早めました。
とうとう耐え切れず母の手の中へ射精してしまいました。
母は枕カバーでチンチンと自分の手を拭いていました。
その後は枕元にちり紙が置かれ るようになり、後処理はちり紙になりました。
そんなことが暫く続き、6年生になった頃には皮は剥け、私も性の知識も豊富に
なり、母のおまんこに手を差し入れるようになりました。
おまんこは濡れ、クリの部分に指先が当たった時などは「ウッ、ウッ、ハー」と母の
抑えた声さえだすようになっていました。
ある晩、今まで手でしごいていた母が口に咥えてくれたのです。
母の口の中の温かさ、口元での締まり、手でのしごきとはまったく違った感触
に、手でのしごきでは結構持続していたのですが、この初めての快感ではかなり
早く母の口の中に射精してしまいました。
そのままウトウトとしていると、また下半身の温かさに気がつき目を開けると目の前
に母のお尻があり、おまんこがはっきり見えました。
豆電球に照らせれてヌラヌラと光って、少し黒ずんだ小陰唇、別にグロとも思わ
ず(これが女のおまんこかと思った)、指で小陰唇を開いたり、クリをさすたり
まじまじと観察していました。
すでに母の感じる場所はクリだと知っていたので、お尻を両手で抱えクリに舌を
這わせ69の体勢で舐めあいました。
それでも母は挿入はさせてくれず、いつも手か口の中での射精ばかりでしたが、それ
でも私は満足していたのです。
中*生になるとさすがに母と一緒の布団で寝るわけにはいかず、同じ部屋の別々
の布団で寝るようになりましたが、
「ヒロちゃん、温かいからこっちにおいで」と私を自分の布団に入れてくれたり、
「そっちにいくよ」といったりで、互いの布団を行ったり来たりの状態で関係が続
きました。
この頃は性的知識は相当身につけていましたが、おまんこへの挿入がしたくてしたく
てたまりません。
それまで時々母は、お尻をこちらえ向け、おまんこの間に私のチンチン
を挟んで逝かせてくれてました。
私に陰毛が生えだした時は、生え揃う過程が面白いといって毎回観察されて完全に
生え揃った頃に「ヒロちゃんも大人になったね、今日は上になって」言われたのですが、
いつも母主導の関係(勿論おっぱいを吸ったり、揉んだりはしていましたが)でし
たので意味が判らずにいると、寝巻き、腰巻を肌蹴てM字開脚をしています。
M字開脚の間に身体を入れ、上から見下ろす母の裸は初めてです。
ちょっと垂れ気味に横に開いた乳房、胸から下腹部、黒々とした陰毛。
割れ目から顔を出したクリと小陰唇、母の手はいつものようにチンチンを握ってし
ごいていましたが、自分から濡れ光るおまんこの入り口に私のチンチンをあてがいました。
初めてのことなので戸惑ってといると、「そのまま腰で突いて・・・・」言われるままに
腰を前に突き出すとニュルっとした感覚と同時に温かさを感じ、今までの口でするのと
はまったく違った感触でした。
突き入れると同時に「ウッ、ファ〜」吐息とも喘ぎともつかない声が母
の口から漏れます。
その後のことも判らずそのままにしていると「腰を・・動かして・・・」と教えられ前後に2、3度抜き差しすると今度は「いい〜」とはっきり言葉を口にだしました。
なんせ初めて生でおまんこを経験したわけですから、いつものようにいかず、
母の声を聞くと同時に中に射精してしまいました。
自分の出した精液が母の奥の壁に当たった気がして、口でされるのとは大違いです。
「ヒロちゃん、初めてだからしょうがないね」
と母はいたわってくれ、自分の股間から流れでる私の精液をちり紙で拭いていました。
それからの主導権は私に移り、指を使ってクリで逝かせ、舌を使って逝かせ、そのたび
に母の口からは「いい〜、もっと・・・もっと」抑え気味な喘ぎを漏らすようになりました。
いくら部屋数が多い家とはいっても、寝静まってからの女性のあの声は結構聞こえるも
のだと思います。
危険日は私が「いくよ」と声を掛けると、母は自ら腰をひいて外だしでした。
この頃になると、母のおまんこでの抜き差しも15〜20分は持続できるようになり、
母もわたしのチンチンでその間に2〜3度は逝っていたようです。
母の逝く時は、脚を突っ張り「ウ〜ンッ・・・ハ〜」と吐息を漏らすから判りました。
私が逝く時は必ず「いくよ〜」と声をかけるのが合図でした。
乳首を舌先で転がしたり、優しく噛んだりすると母も感じることも知りました。
だんだん体位も覚えました。
最初はやはり母のM字開脚で始まり、クンニ、フェラ、指マンそして正常位
で挿入。母のおまんこに抜き差しするチンチンとあそこの濡れ具合が増してきてク
チャクチャ、二チャ二チャたてる音に興奮を覚えたことです。
感じてくると母の左右に振られる顔、喘ぎ声、私の腰にしっかりと巻きついた脚。
次は後背位、バックからの挿入です。
いつ頃だったでしょうか、69の最中に母みずから「このまま入れて・・・」と四つん
ばいのままお尻を突き出して以来です。
この時は母の口から「い〜〜・・・奥・・まで」といつもと違った喘ぎ声をだしました。
側臥位は以前から知っていましたので大体この3パターンがいつものコースでした。
ある時、私の股間に顔を埋めてチンチンを咥えていた母はそのまま身体をずり上げ
て来て私の股間に跨り、勃起したチンチンを自分のおまんこにあてがい、そのまま腰
を落としてきました。
初めての騎乗位の体験でした。
私の股間に跨り腰を振る母を見上げ、揺れるおっぱい、張ったり緩んだりするお
腹、時々見える陰毛の影。母が後ろに両手をつくと小陰唇まで見え、出し入れさ
れるチンチンがヌラヌラと光ってみえました。
私も腰を上下に使うと、奥まで届くのでしょう、喘ぎ声がかわります。
母も自分の感じる部分にチンチンの先を当てるかのように前後左右に動かしたり、
腰を回したりして「ヒロちゃん、いくよ・・・」私の上に突っ伏してしまいました。
と同時に、それまで耐えていたものを一気に母のなかに射精しました。
そのうち座敷蔵(普段住居として使用する蔵)で母と寝起きするようになりましたが、
部屋は別々です。
蔵作は冬暖かく、夏は涼しく、最大の母とのメリットは防音性に優れていたことです。
それまで抑え気味だった母の喘ぎ声が限度はありましたが、はばかりなく出せること
です。
母の喘ぐ時に発する言葉も断然多くなりました。
高校に進学すると、三つ上の兄は就職して同居家族は祖父母との4人になりましたの
で、もう夜の関係は一つの布団で寝ていようが夫婦同然の生活でした。
高校生になると母はチンチンを咥え、舐めながら、
「ヒロちゃんのこれも立派な大人になったね〜」
と愛おしいそうに丁寧に咥え、舐めてそれから自らのおまんこに入れるのです。
母が後ろ向きに上に乗ると動くたびに、アナルがヒクつき閉じたり開いたり、前屈みになり、動くたびにおまんこに抜き差しするチンチンが小陰唇を巻き込んで出し入れさ
れるのです。
50歳を超えた母でしたが、お尻はそれなりにありましたが、まだクビレもあり、
おっぱいは多少垂れ気味にはなっていましたが、近所の同年輩のおばさん達と比べると
まだまだ若いといった感じです。
松葉くずしの体位の時は「チンチンが奥の一番感じる部分に当たる」と言って母
の好きな体位でした。
こんな関係も私の高校卒業=遠方就職で一時的に終わりました。
最後の夜は一晩中ほとんど寝ずにありとあらゆる体位でずに母と交じりあいました。
「もうヒロちゃんとは会えないんだね・・・・」
あの時に流す涙とは違った本当に別れを惜しむ涙を流していました。
「盆、暮れには必ず帰ってくるんだよ」
と言って送り出してくれました。
24歳で結婚するまで帰省のたびに母と交じり合いました。
60歳でも女は出来るんですよ。
この結婚の時は、口に出しては言いませんでしたが、彼女に私を取られると思ったの
でしょうか、猛烈に反対され、親子の縁を切るとまで言われました。
その頃は帰省もせず母との関係も疎遠になっており、なんとか説き伏せやっと了解
を取り付け結婚しました。
男女二人の子供も出来て孫を抱いた母はすっかりいいお祖母ちゃんになり、それ
までのことは棚にあげ、嫁さんに、
「夫婦は夜の営みがなくなったら終わりだよ」
と変な知恵をつけ77歳でこの世を去りました。
一昨年母の23回忌を営み昔の母との封印を解くつもりで書いてみました。